初めまして!
ラッパーをしてますガラララです。
ブログを見つけてくださって
ありがとうございます^^
はじめに
ぼくは複雑な家庭に生まれたため
・黒人の兄がいたり
・顔も名前も知らない姉がいたり
・家族全員と縁を切ったりと
今に至るまでに
少し騒がしい人生を送ってきました。
ぼく自身は平々凡々で
いたって普通な人間の過去の話になりますが、
音楽との出会いが
人生を大きく変えるきっかけになりました。
そして今ではぼくが音楽を作る側になったので
もしかしたらこの出会いがあなたとぼくの
ターニングポイントになるかもしれません。
そうなれたらいいな〜と思って
一生懸命書いていくので、
ぜひ最後まで読んでいってください!
まずは目次をどうぞ↓
もくじ
生まれる
1996年11月22日 良い夫婦の日
都内某所にて誕生しました。
しかし不運なことに
生まれてすぐ高熱を出したため
お医者には
「この子には将来99.9%の確率で脳に障害が残る」
と診断されてしまいました。
実際どうなのかというと
ADHD系の発達障害はありますが
それは性格の個性のようなものなので
省くとして、
先天的な脳機能障害などはないと思います。
ヤブ医者だったのか分かりませんが
不幸中の幸いでした、あぶねっ。
ちなみに父は「堕ろせ」と言っていたそうです・・・w
それも選択肢の一つだと思います。
【幼少期】DV親父と心霊団地
人生の最初期は父母兄自の4人で暮らしていました。
ですが父と母の新婚生活は
お世辞にも順調とは言えず
自分が歩けるようになって初めてした行動は
くつを揃えることでした。
なぜそんなことをするのかというと、
たまにくつを揃え忘れる母や兄に対して
父が手を上げているところを度々目撃していたためです。
まあそれ以外の些細なことでも手は上げられてましたが
シンプルで印象に残っていたのがくつなんだと思います。
なので基本的に家は
父の恐怖で支配されていたのですが、意外にも
うちで一番ケンカが強かったのは母でした。
母は元々ニューヨークでダンサーをしていて
タッパが170cmあります。
なので本気でヤベェという時は
母が拳を握りしめて父をボコボコにします。
また、ぼく達が住んでいた家は
団地の最上階なのに深夜になると毎日
天井から激しいノック音がしたり
ポルターガイストが起こりまくる
不気味な物件だったのですが、
母は、明らかに不自然な勢いで
開いてくる扉を片足で押さえつけながら
野菜を切っていました。w
そう、家族みんな家の中のリアルが大変すぎて
実体のないかまってちゃんを気にしている余裕など
なかったのです。
あと余談ですがゴキブリも大量に出る家でした。
そして両親はぼくが3歳の時に離婚、
離婚後ぼくと兄は、母に引き取られて
祖母の家で暮らすことになりました。
【小学校編】優等生を演じて病む
小学生になったぼくは、
家族からのネグレクトを受け
ただただ苦悩していました。
どういうことかというと、
衣食住は与えられますが
教育は与えられず、
家族の誰も自分のことを
気にかけていないような感じです。
そして、それらの環境には
明確な原因がありました。
ぼくの6つ上の兄です。
兄はアフリカ系アメリカ人のハーフゆえ
肌の色が原因でいじめられていた過去が
ありました。
その結果
上級生をぶっ飛ばし、毎日暴れまわって
不良の友達ばかりに囲まれ、兄は
学校の番長的な存在になっていました。
反面、弟のぼくは
・目立たない肌の色でいじめられもしない
・放っておいても勝手に勉強をして
・成績も悪くなく、スポーツもそこそこ
・祖母にしばかれても反抗しない
・物も欲しがらない
家族を自分にふり向かせたい一心で
そんなコスパの良い子どもを演じていました。
しかし、おそらくそれらの行動が裏目に出て、
「弟の方は放っておいても大丈夫だ」
と家族に思わせてしまったのだと思います。
やがてぼくは
「替えの効かない存在にならなきゃ自分は無価値だ」
と本気で思い込むようになり、
そんな捻れた価値観を核として
人格が形成されていきました。
劣等感の受け皿として行き着く先は大抵
芸術と相場は決まっているのかもしれません。
もしかしたら。
そして運命の日は唐突に訪れます。
夢を持つ
すごいことなんて何も起きない毎日。
退屈で干からびそうだったぼくはその日、
なんとなく兄のipodをこっそり借りて
初めて音楽をイヤホンで聴いてみることにしました。
アーティストはマイケルジャクソンで
曲は『You rock my world』でした。
↑画像は『2bad』ですがカッコよすぎでこのPVほんと好き
母や兄の趣味で元々ブラックミュージック全般、
とりわけMJは常に掛かっているような環境でしたが
イヤホンで爆音で聴く音楽は別世界でした。
鼓膜を突き抜けるようなスネア
地鳴りのように太いベース
美しく激しいボーカルの切れ味
その全てが
モノクロで退屈な
いつも通りの日常に雷が落ちて
初めて色彩が生まれたような・・・
そんな感情を想起させました。
「おれ、将来MJみたいな人になりたい!」
その日を境にぼくの人生は
大きく変わったのです。
勉強することを辞め、
友達付き合いも悪くなり、ただ
音楽の才能だけを欲するようになったのです。
【中学校編】音楽を毎日10時間研究し続ける
中学に進学したぼくは、
部活や遊びには目もくれず
一直線に帰宅部に入りました。
家に帰ってやることといえば
脳みそフル回転で音楽を聴くこと。
・
・
・
ぼく「この曲好きで毎日聴いちゃうな」
↓
ぼく「なんで聴いちゃうんだろ?」
↓
ぼく「ここの部分を聴きたくて聴いてるな」
「よし、心が震えた部分をちゃんと覚えておこう」
こんな具合で
右脳のアンテナでキャッチした曲の旨みを
左脳で論理的に理解できるまで分析する
「これを続けて曲が作れるように
なるのかはわからない、けど
自分の理解が及ばないものを
作ることはできないだろう。」
そう考えたぼくは毎日コツコツと
理解し、扱える武器を蓄えていきました。
ちなみに学校はサボりまくりで
成績はオール2、遅刻もデフォルトで
登校には下駄箱ではなく、
最短で教室に行ける廊下の窓を使い
授業中は寝るか袖イヤホンで曲を聴くだけ。
今だったらBluetoothで難なく
バレずに聴けますね^^
袖イヤホン・・・ノスタルジックだなぁ
【成人編】世界一クソみたいな20歳の誕生日
急に時間が飛んでしまいました、すみません。
実をいうと高校編はないのです。
なぜかというと、
高校は始業式の一日だけ出席して
辞めてしまいました。
なんかダルかったので。w
でもギリ中卒ではありませんよ!
通信制に編入して高卒の証書だけ
サラッと貰いました。( ̄ー+ ̄)b
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19歳当時
ぼくはDTM(PCを使って作曲すること)の
スクールに通うために友達とアルバイトで
出稼ぎをしていました。
某大手ECサイトの小田原の倉庫で
11月〜年末までの短期バイトです。
日給は12000円ほど貰えたので
まあまあ美味しいバイトではありましたが、
現場が自宅からかなり離れた県外にあったので、
朝6時に起きては電車やバスに揺られて出勤、
終電ギリギリで帰宅し、
泥のように眠るだけの日々を過ごしていました。
当時は若さゆえの焦燥感で自暴自棄になっていたため、
祝日なども気にせずシフトを入れて
せっせと働いていました。
本当に気にしていなかったのかというと、
ぶっちゃけ多感な時期でしたから
周りの友人達のキラキラした
楽しそうな話や噂を耳にするたびに
多少の嫉妬心も抱いていたと思います。
そしてわざわざ
20歳の誕生日も無視して働いていたのは
ある種の自傷行為のような気もします。
最後の数日は無理がたたって体調を崩してしまい、
休んでしまいましたが、
生活費を引いて手元に残ったお金は27万円。
これだけあれば1年間はお金を気にせずに
作曲を習うことができます。
久しぶりの休日でDTMスクールをのんびり
探しながら休養をとっていた矢先、
一本の電話が掛かってきました。
「お金を貸してほしい」
聞き慣れたその声の主は母でした。
家庭崩壊
聞けば仕事で使っている車のブレーキが
壊れたのでお金が早急に必要、
修理費用は23万円とのことです。
実は母にお金を貸すのは
これが初めてではありません。
・
・
・
今までトータル100万円弱貸して、
一銭たりとも返ってきていません。
そのくせ「ありがとう」も「ごめん」も言わず
ヘラヘラするだけの母に内心うんざりしていました。
そしてぼくら兄弟間の教育費格差も大きく、
兄のハワイ留学やNY留学などで
兄はぼくより1,000万円以上高い教育費を
かけられていました。
・
・
・
「23万円貸してほしい!」
ぼくは応じません。
「本当に困ってるの!」
ぼくは応じません。
「家族が困ってるんだから貸してよ💢」
「家族なんだからさぁ!」
まるで
「家族にお金を貸さないお前は悪人だ」
そう言われているように感じて
非常に不愉快でした。
しかし心のどこかで
「何も考えずに信じてしまいたい」
と思う自分がいました。
「次こそはもしかしたら
裏切られないんじゃないか?」
いい加減”過去から学べよ”と
思うかもしれませんが、
肉親を助けたくないと思う子どもは
いないと思うんです。
道徳的にいえば親を助けるのが善行
結果的にぼくはお金を貸してしまい
案の定、お金が返ってくることは
ありませんでした。
50歳が生活維持のために使う23万と
20歳が可能性を探るために使う23万、
同じ金額でもその本質的な価値の差には
かなりの開きがあります。
同時に「応援している」と口では言いながら
こちらの足首を掴んで離さず
前に進ませてくれないような
気持ちの悪さを感じます。
微かな灯火程度残っていた
家族への信頼は完全に消え、
ぼくは家族を手放すことにしました。
自分の人生を守るために。
【24歳〜】人生が始まる
『生きる気力』は木の幹のようなもの。
『生きて何かを成したい』という情熱は
数ある枝葉のひとつに過ぎません。
思えば、家族に振り向いてほしい一心で
がんばってきた音楽でしたが、
本質的なぼくの目的は、
家族を捨てたその日から失われたこととなり、
枝葉はかろうじて熱を帯びていましたが
幹は腐り、根は乾き、陽は当たることがない
けどぼくは進み続けることを決めました。
「これからはぼくのためだけに生きよう」
今までずっと他人を中心に自分の人生を
生きていたことに気づいたのです。
そして
寂しい時、辛い時、苦悩した時、絶望した時、
いつもそこには
自分にとってのヒーローがたくさんいました。
彼らはミュージシャンであり、
お笑い芸人さんであり、
実業家であり芸術家です。
そしてその誰もが詩人でした。
「ぼくも誰かにとってのそんな存在を目指そう」
「人生を何に使うかは自由なのだから」
そしてこれを書いている今は
都内のボロアパートを借りて
毎日コツコツと制作に励んでおります。
願わくば、
みんなの聴覚において
一番の存在になりたい。
それがぼくの生きる意味
その全てです。
とても長い記事でしたが
最後まで読んでくださって
本当にありがとうございます!
続きはガラオリジナル公式LINE、
もしくは各種SNS等に登録して
ぜひ遊びにきてください!
ここまで読んでくださった皆様との
ご縁を大事にこれからも作曲
がんばっていきたいと思います^^
ガラララ